群青の隘路に

喚き散らかす

許すことと見限ることは似ている

 「オリジナルでやれ」という言説がそこはかとなく不愉快である、という話をします。

 

 「オリジナルでやれ」とは主に女性向け二次創作でよく見る言説(もしかしたら男性向け界隈にもあるのかもしれませんが、私がその辺りに詳しくないので分かりません)です。原作ありき、原作愛ありきの二次創作において、例えばキャラに過剰な設定を盛り過ぎて別人になっているとか、例えばパロディを凝り過ぎて完全に別キャラになってしまっているとか、要するに「そのキャラでやる必要なくない?」と突っ込みたくなる創作物に対して向けられる揶揄を指します。近頃はそうした意見をよく見かけるようになりました。キャラクターを自分好みのテンプレに当てはめている、それはキャラ愛とは言えない、いっそオリジナルでやれ。とまあ、このような流れで目にすることが多いです。気持ちはとても分かる。分かります。解釈違いを広められて肩身が狭いとか、キャラクターを蔑んでいるようにしか見えないとか、思うところが沢山あって、攻撃的になってしまうのは分かります。やっと出てきた言葉が「オリジナルでやれ」だということも、分かっているつもりです。けれど、そう言いたくなる気持ちも分かった上で、それでも私は酷く不愉快な言葉だなと思う。

 私が小説を書き始めたのは十一歳の頃で、その時書いていたのは一次創作でした。オリジナルです。漫画の影響を多大に受けてはいましたが、別作品のキャラクターを使ったものではありませんでした。腐女子になったのが十三歳、文章での二次創作を始めたのが十五か十六歳頃。以降は並行していましたが、文字書きとしていうのであれば一次創作の方が少しばかり歴が長い。高校生の頃は文芸部で一次創作を発表していたし、大学生になってからも文芸創作ゼミに三年間所属して一次創作をやっていました。何が言いたいかと言うと、私は「オリジナルも二次創作も齧った人間である」ということです。とはいえ一次創作はネットにほとんど公開していないので、オンラインにおけるそういう界隈のことはさして詳しくはないのですけれど。

 その上で、「オリジナルでやれ」という発言。物凄くひっかかります。確かに「そこまで設定凝りまくってるならもう一次創作の話として書けばいいじゃん」というネタはありますし言いたくなる気持ちも分かる。けれどそのネタを本当にオリジナルで書くとすると、相当の労力を費やすことを分かっていて言うのでしょうか。キャラクターの心情や行動、絡みを重視される二次創作とは異なり、一次創作はその世界観を徹底的に作り込まなければいけません。巧妙な嘘をついて読者に信じ込ませることが小説の前提です。キャラにそれっぽいことをさせているだけでは、すぐに違和感が目について読むに堪えないものになります。美は細部に宿るのです。しかもオリジナルでやるとするなら、キャラクターのそれまでの人生設定も作っていかなければいけなくなる。それを「ちょっとこんな設定でパロやってるキャラが見たいな」「このキャラをこの世界観に置くならこれだけのバックヤードがないと変かな」と言っているだけの書き手に、そこまでの労力を費やして一次を書けとどうして言えるのでしょう。じゃあそれで一生懸命考えて書いた一次創作の話を、お前は読んでくれるのかよ? そしたら次は「このキャラ、〇〇のパクリじゃん」「この設定って〇〇のパクリじゃん」とか言い出す癖に。お前がオリジナルでやれって言ったんだよ。

 断っておきますが、別に一次創作と二次創作を天秤にかけてどっちが高尚だとか言っているのではありません。そんなマウンティングに価値も興味もない。読者が重視する点が異なるというだけで、適当な設定で残念な出来になるのは二次も同じです。ただ二次の場合はやはりキャラに重きを置くので、設定や世界観の多少の粗は見逃してもらえるというのが事実であると思います。二次だと共通認識になっている公式設定などは端折れますし。あと「一次で見てもらえないから二次で書く」ということを示唆しているわけでもありません。そんな理由で二次創作をやっている人間はなかなかいないと思います。

 そもそも二次創作は自己満足です。「このキャラがこういうことをしているのが見たい、他ならぬ私が!」創作の理念なんてこの程度で十分です。私が見たいから私が書いている。自給自足です。それを少しばかりの承認欲求(一生懸命書いたものを見せたいと思うのは、至極自然な心理だと思います)と仲間探しの希望を込めて発表しているに過ぎない。それを「オリジナルでやれ」って、土俵が違うことにどうして気付かないのか。どんなに設定盛り盛りでも、別人に成り果てているとしても、創作者の中ではそれが見たいキャラなのです。それが見たいパロディなのです。自分の読みたいものは自分しか生み出せません。もし読みたいものを書いてくれる他人がいたら、それは単に幸運であったというだけです。だというのにその奇跡にも気付かず人の創作を捕まえて「オリジナルでやれ」って、お前。違うから。「このキャラ」が「このパロディ世界観」で「こんなことしてたら」「私が!! 私が楽しい!!」創作だぞ。オリジナルに私の求めるものはない。オリジナルで書きたいネタならとっくにそっちで書いてるよ。どんなにぶっとんでいようとも、作者の中では「~~なことしてるキャラが見たい!」しかないのだと思います。全ての土台に「~~なことをしているキャラはどんなだろう?」という思考実験がある。というか私はそう。私自身は原作設定を極力ないがしろにしないよう意識はしていますけれど、それでもやっぱりパロだの女体化だのを考えたくなる時だってあります。でもそれは決してオリジナルで書けないネタのリサイクルではありません。繰り返しますけれど私は一次書いてた年数の方が長いのです。オリジナルでやりたきゃやってる。あえて二次でやるのは、「そのキャラでこのネタが見たい」から。それだけです。自分だけが楽しい自己満足の成れの果てにすぎません。それを「キャラ愛じゃない」とか、何でお前に言われなきゃいけないんだよ。お前が決めんなよ。お前が私の何を知ってるんだよ。お前誰だよ。

 とはいえ、書きたいネタが自由であるなら読みたいネタも自由です。「オリジナルでやれ」と感想を持ってしまうのも、また自由です。それは仕方ないことだと思う。理性で分かっていても本能が拒否するということは往々にしてあります。腐女子の解釈は信仰であり宗教です。神を弄ばれていると思えば教徒は怒り狂う。当然です。分かります。その気持ちだってもちろん分かる。ただ私が言いたかったのは、書き手の求めるものがオリジナルにない以上、その聖戦はどこまでも不毛であるというだけです。触れずに離れて、表立って相手を攻撃しないように過ごせれば何よりだと思います。争ったところで時間と体力を浪費するだけだ。読む読まないは読み手の自由だけれど、その作品が存在することさえ許さないのは傲慢です。そこまでの権利は読み手にない。

 

 もちろん記事で触れていない例外だって沢山あると思います。全ての人が一次創作を齧っているわけではないし、名前をすげ替えただけの焼き増しネタとか悲しいことに存在しますし。けれどそれも全て信仰スタイルの違いだと思って諦めれば、少しは楽になれると思いますよ。殺意は湧くけど捨て置いておける。抱いた殺意を本人の目につくところで出さないだけでも、節度あるインターネットって出来るのではないかな。許すことと見限ることは似ている。スルースキルの向上で、快適な腐女子オンラインライフを送りたいものですね。